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狂言鑑賞その2
続き。


中にある能舞台は、もともと東京・根岸の旧加賀藩主 前田斉泰邸に

建てられていたものだそうで、

ホールに足を踏み入れた瞬間、その存在感に圧倒された。

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床板などは現代のものだったが、大半は当時のままの部材が使われているようで

その美しいフォルムに見とれてしまった。

歴史ある建物には、ほんとにオーラが漂っている。


(2階席から)
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(客席から)
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そしてついに狂言が始まるかと思いきや、男性の演者さんが出てきて

軽妙なトークで狂言の基礎知識や面白エピソードなどを話し出した。

もっと厳かな雰囲気で始まるのかと思っていたので、少々面食らったが

初心者にはありがたい。


さて、肝心の演目は「謀生種(ほうじょうのたね)」というお話と

「呂蓮(ろれん)」というお話。


「謀生種」はウソの上手な伯父にいつもやられている甥が

逆にだましてやろうとする話。


「呂蓮」は宿の主人が旅の僧に出家したいと申し出て

呂蓮と言う名前をもらうという話。


狂言は笑劇ということなので当たり前なのだろうが

それにしてもあんなにも客席から笑いが起こるものだとは意外だった。


日本の伝統芸能に理解を深めるには、もっと勉強しなければ。

いや、勉強なんて堅苦しいことは言わないで

ただ楽しめばいいのかな。
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隈さん講演会
木曜日、隈研吾さんの講演会に行ってきた。


隈さんの建築というと、内部と外部とのインターフェイスとしての

外皮(外壁)の取扱いが特徴的だが、

講演の中で紹介されていた最近のプロジェクトでは

構造形態に対して新しいアプローチを試みられているようで、

とても興味深かった。


話の中に、無理を言うクライアントや

他の建築家に対する皮肉(?)っぽいコメントも

時々出てきて、会場の笑いを誘っていた。


講演会の帰りに思ったのだが、

隈さんにしても他の建築家の方にしても

こと「光」の取扱いについてのアプローチは多く見受けられるけれども

温熱環境に対する新しいアプローチはあまり見たことがない。


ゼネコンが設計するビルなどでは

カーテンウォールに組み込まれた換気システムなど

新しい試みと言えるのかも知れないが、

いわゆる建築家と呼ばれる人たちの作品では

そういったことが語られることは少ないと思う。


光と影によって空間が形作られると言っても過言ではないだろう。

過去の偉大な建築家たちも

そこに設計の大きなテーマをおいていたことも間違いない。


だがしかし、温熱環境もまた建築を作る上で重要なテーマであり、

建築家が取り組まなければいけない一つのテーマである。


コルビュジェのように写真写りを意識して

フォトジェニックな建物を設計するばかりが

建築家の仕事ではないのだ。
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狂言鑑賞
日曜日に横浜能楽堂へ。

初めての狂言鑑賞。

実は能が見たかったのだが、よくわからずにチケットを取ったら狂言だった。


鑑賞前に予備知識を入れておこうと思い、向かいの県立図書館へ。


前川國男設計の神奈川県立図書館(左)
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隣接して同氏設計の音楽堂
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同じく青少年センター
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など、5棟ほど前川建築が建っている。


図書館に入ったはいいが岡本太郎の対談集を見つけて読んでいたら

夢中になってしまい、予備知識はほとんど入れられず。

(内田裕也との噛み合わない対談が面白かった。)


能楽堂。大江宏設計とのこと。
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大きな屋根が建物を覆うようにすっぽりとかぶさっていて

とても落ち着きのある、凛とした佇まいが印象的。


続く・・・。



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建築と音楽
音楽に嫉妬している。

音楽と建築は古来よりその存在理由が同じように変化してきた。
宗教的な象徴、儀式のツール、権力の象徴として(これはあまり音楽には関係ないか?)、
富の象徴、金持ちの娯楽、・・・。

音楽は20世紀初頭にブルースやジャズが生まれ、
そして同じく20世紀半ばにロックンロールが誕生し、
いまや大衆の娯楽の最たるものとしてこの世に存在する。

しかし建築はどうか。

人は皆、家がなければ暮らしてゆけない。
誰もが自分が帰る家を持っている。
にもかかわらず、建築は大衆のモノとは言いがたい。

どこか仰々しさ、難解さを感じずにはいられない。
建築家が語る言葉はいつも難解だ。
いちいち難しい。

音楽はいつでもどこでも一緒にいられる。
自分で口ずさんだっていい。

建築はそうはいかない。なぜなのか?
車が建築に取って代わったと言えるかも知れないが、それでは不十分だ。
納得できない。

FINAL HOMEで津村耕佑氏が唱えるコンセプトも非常に興味深い。
しかしそれは、人間を守るための「究極の家/FINAL HOME」=衣服であり、
ここで考察しているものとは目的が異なる。

建築は大きなものだし、お金もかかる。
そんなお手軽な文化であるわけがないと言われるかもしれない。

しかし、かつては高価な管楽器や弦楽器を揃えたオーケストラで奏でられていた音楽も、
今はiPod1台あれば手軽に楽しめるように、
建築ももっともっと大衆的で、手軽な文化となり得るのではないだろうか?

建築をいつでもどこでも「奏でる」ことはできないが
「再生」することはできるのではないだろうか?

建築を持ち運ぶとは、家を移動させることではない。
お気に入りの空間にいつでも身を置けるということ。
それこそが建築を持ち運ぶということではないか。

これはおそらく、自分の一生のテーマになると思うが、
いつか何かしらのカタチにしたい。
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セカイカメラ
またひとつ、ライフスタイルに大きな影響を与えそうなモノが出てきた。

目には見えないけれど、カメラを通して街を見ると
いろいろな情報を持ったタグが浮かんでいて
ユーザーはそこから好きな情報を選んでみることができる。

現実世界に仮想レイヤーを一枚重ねたようなイメージだろうか?
CADを使うような職業やデザイナーさんなんかにはイメージしやすそう。

普段は見ることができない世界がソコに浮かんでいるかと思うと
ちょっとわくわくする。

駅の改札の出口にレストランの案内をタグで貼り付ける、
BARの通常メニューとは別に、裏メニューのエアタグが店内にかくれている、
美術館で作品の横にある説明書きの代わりにタグを浮かべておく。
ゴルフ場のコース入口にコース攻略法のタグを浮かべておく、・・・。

商業的にはいくらでも使い道がありそう。

おばあちゃんが、いなくなったネコの行きそうな場所に
迷いネコのタグを貼っておく。
なんていうのも良いかもしれない。

建築的にはどうだろうか?

このアプリの肝は、カメラの向こうに現実世界とは異なる世界を作り出す
ことではなく、現実世界に情報を付加するところにあると思う。
つまり現実世界あっての仮想世界であるということ。

セカイカメラは情報を取得するツール。(と言って差し支えないと思う。)
なので建築における情報の在り方にアプローチするのが有効かも知れない。

当たり前だが建築とはある程度の期間そこに存在し、
ゆえに時間の経過とともにそこに居る人々の経験が蓄積されていくが、
この経験はカタチには残らないことほとんどだろう。

しかしエアタグにそこで見たもの、聞いたもの、感じたものを書き残すことで
他の人がその経験を共有することが可能になる。

共有してどうするのかという疑問が湧くかもしれないが、
たとえば、生前おじいちゃんが見た風景を、
大きくなった孫が共有することができるかも知れない。

そこにはある種、感動のようなものが生まれると思う。

セカイカメラは建築の作り方ではなく使われ方、
ある場所での時間の過ごし方に変化を与えることで
人々の建築に対する意識を変えていくのかも知れない。
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